西シドニー大学大学院
山本 至
今日、西欧諸国はヘルスケアー分野における支出の急増という共通の課題に直面している。しかし、オーストラリアにおいては公私ヘルスサービスを混合することによってユニークな健康保険システムを作り上げてきた。このシステムは、これまでにその効率と効果という両面において注目されるべき成果をあげてきている。
ヘルスケアーシステムの一つの目的は言うまでもなく、すべての人々に等しく平等に健康な状態を保障することである。従ってここにおける「効果」とはその国のすべての人々の健康と健康な状態に対するそのシステムの効果であるといえる。いいかえれば、個々の国家が採用しているシステムがいかに効果的にはたらいているかと言う事であり、具体的には、それらは個々の国における平均寿命や年齢ごとの死亡率、疾病構造などからみてとることができる。
しかし、一方でその「効率」を検討するとき、それはしばしば経済的、財政的な側面から議論され、同時に「効率」の名のもとに国民への給付が切り捨てられる傾向を持つこともあろ。従ってヘルスケアーの分野における「効果」と「効率」という二つの概念は、しばしば対立する概念としてとらえられ、ヘルスケアーの理念を、抜け出すことの困難な一つの矛盾の中に導いて行くのである。
実際に、いくつかの先進国では「効率」が優先され、その「効果」が切り捨てられている。日本においては、1997年度には、入院給食が健康保険の給付から一部除外されたが、これもその効率化を狙ったものといえる。しかしこの効率化の視点は、まさに経済的効率化のみを優先した政府の立場と言えよう。しかし翻って社会全体の視点から眺めれば、この改正は入院患者の治療効果と言う点で疑問が残り、同時にそれは長期的に見れば真の「効率」化とは言いがたい。
こうした中でオーストラリアのヘルスケアーシステムは「効率」と「効果」言う、一見相対立し矛盾する両者を、ユニークな公私混合社会保険システムによって統合する努力を着実に進めているように見える。
しかし一方でいくつかの問題点も指摘されている。例をあげればケアーの質の問題、過剰診療、乱用の問題などがある。しかしながらオーストラリアの今日の到達点、とりわけ社会保険システムの到達点は評価に値するものがあり、様々な問題を抱えヘルスケアーシステムの再構築を迫られている日本を含めた西欧諸国に対して一つの解答を提示する要素を含んでいると言える。
オーストラリアは現在、全国単一の公的健康保険「メディケアー」を運営している。その根本原理は普遍性、平等性、単純性と容易な利用である。このメディケアーはすべての住民に無料の医療サービスを保障している。(Grant & Lapsley 1992).
今日のオーストラリアにおける医療保険制度は労働党が政権に返り咲いた1984年に確立された。当時、すべての住民と留学生などの一時滞在者がこの制度に組み入れられた。(White 1995) 保険税は所得の1.4%となっている。オーストラリアの医療機関のシステムは、完全紹介医制度となっており、患者が直接病院にかかることは救急医療を除いて行われない。 患者はまずGP(General Practitioner)と呼ばれる個人開業医にかかるが、GPは重装備ではなくレントゲンなども持っていないのが一般的である。さらに高度の医療が必要であれば、GPを通して患者はスペシャリストと呼ばれる個人開業専門医や病院に紹介される。薬は完全な医薬分業となっており、薬が必要な場合は処方箋が発行され、最寄の薬局で購入する。病院は公立と私立があるが、公立の病院にかかる限りは特別な場合を除いてすべて無料の医療を受けることができる。特別な場合とは、個室を選択したり、医師を指名したり、緊急でない手術の場合に、順番待ちを緩和するなど、「私的」とみなされる内容であり、これらについては公的保険でカバーされないので、私的保険が必要となる。私立の病院にかかる場合はその費用の一部しかメディケアーはカバーしないので、私的保険に加入していることが前提となる。
連邦政府は病院外の個人開業医と個人開業専門医、及び薬剤費を負担している。州政府は一般的には病院における医療費, 個人開業医が緊急に病院で治療を行った場合の費用、個人開業専門医が病院で治療を行った場合の費用、及び病院における薬剤費を負担している。 一方、私的保険は私立病院での費用と、例えば緊急でない手術の順番待ちを緩和するなど、公立病院におけるいくつかの私的保険適用とみなされる治療について負担している。(White 1995).
オーストラリアのヘルスケアーにおける一つの特徴は、公私の役割分担の中に見出すことができる。オーストラリア社会においては、人々は最低レベルのヘルスケアーを受ける基本的な権利を誰でもが持っているという認識が広く行き渡っている。公的な保険制度はこの基礎的なヘルスケアーを受け持ち、私的保険は「快適さ」において機能している。この「快適さ」の内容についてはいろいろと議論があるが、日本で議論がされているいわゆる「アメニティー」の議論とは少し異なるようである。たとえばメディケアーは歯科についてはカバーしていないが、出産、堕胎及び、オーストラリア国内で盛んに行われる移植医療についてはカバーしている。一般的にこのメディケアーがカバーする内容は国民が必要と考えるなら選挙を通じて変えることができる。ただし保険税はそれに応じた形で上がる、と言うように国民の中で理解されている。いずれにしても、様々な議論はあってもオーストラリアのシステムは現在のところ概ね合理的な内容を確保しているようである。
オーストラリアにおけるもう一つの特徴は政府による私的保険への強力な介入である。第一に、保険料は一般的に安くおさえられており、所得の低い層でも加入が可能であり国民の34%が何らかの私的な保険に加入している。(Botsman 1998) 私的保険加入者の20%は週$A160以下の所得である。(White 1995). さらには政府自身が最も大きな私的保険会社を自ら運営しており、そのことによって保険料を適切なレベルに押さえるなど効果的な介入を可能にしている。このユニークな政策は、かつて医療保険システムにおける経済学的なアプローチを提唱したスコットンとディーブルの二人の研究者の影響を大きく受けている。 (Richardson &Wallace 1989). この二人の研究者はその著書の中で次のように指摘している。「オーストラリア特有のシステムはこの名ばかりの私的非強制保険体系によって特徴づけられる。この私的保険が政府の社会政策の一部となったとき公的と私的、強制と非強制の区別はあいまいなものとなる。」(Scotton & Deeble 1989 p132).
このように、オーストラリアの保険制度は政府によって強力にコントロールされる私的保険によって補完されており、公私の区別は非常にあいまいなものとなっている。しかし実にこれこそが、オーストラリアの医療保険制度を、その効果と効率において統一することに成功しているのである。つまり公的保険によって、最低限度確保されなければならない「効果」を確保し、私的保険と役割分担することによって、公的保険にありがちな「不効率」を極力押さえて行くことに成功している。
医療保険制度を吟味する場合、言うまでもなくその効果と効率という両面からの検討が求められる。医療保険制度の目的はすべての人々に平等な医療保険を保障することであるから、その効果はその国の人々の健康のレベルによって図ることが可能である。その健康のレベルは単純には死亡率と平均寿命によってはかることができるがオーストラリアは西欧諸国の中では比較的好成績をおさめている。死亡率は70年代はじめから、減少しており、平均寿命においても過去20年間に徐々に向上してきている。(AIHW 1992) 世界的に見ても男性75,04歳で第6位、女性が80,94歳で第5位(1994)と非常に健闘していると言える。(日本は男性77.01歳、女性83.59歳)
こうした統計から見ればオーストラリアの医療保険制度は、その「効果」と言う点において、ある程度の成功を収めているといえる。
一方、その「効率」と言う点においては、オーストラリアも西欧諸国同様、近年医療保険にかかわる費用の増大という問題に直面している。その点では、その「効率化」は今日的な重要課題である。この「効率」は、その「効果」との比較の中で、いくつかの経済指標においてはかることが可能であるが、国民一人あたりの医療費は1987年以来低いレベルにとどまっている。 1960年当時、国民一人あたりのオーストラリアの医療保険及び公衆衛生にかかる費用はUSAの約88%であったものが、1993年においては59%と低く押さえることに成功している。先進諸国の中でも非常に低い日本の水準に近づいてきている。(Botsman 1998) 国民医療費をGDP比で見ると日本が7.2%であるのに対してオーストラリアは約7.9%。国民一人あたりの医療費については、日本が277.783円に対してオーストラリアが214.642(1995)となっている。(厚生白書1998)このように、オーストラリアの医療保険制度はその「効果」を損なうことなしにある程度の効率化に成功していると言える。
こうした状況を可能にしてきたのは、ほかならぬ公私混合社会保険制度である。政府による強力な介入のもとでの公私の役割分担は、一見矛盾するかに見える「効果」と「効率」という二つのファンクションを統一することに成功しているのである。公的保険は国民への基本的な健康の保障に責任を負い無料の医療を提供し、私的保険はそれを補完する「快適さ」を確保している。その点において非常に効果的、合理的な医療保険制度を実現していると言える。
しかし一方でこうした医療保険制度に対するいくつかの批判も行われている。スコットンとディーブル自身こうした公的強制保険に対する批判を指摘している。一つの議論はケアーの質についてである。この議論は公的な保険はしばしば質の低下を招くと言うものである。(Scotton & Deeble 1989). しかし、現実には例えば先述した通りオーストラリアの死亡率は着実に低下してきているし、とりわけ乳児死亡率が非常に低いのはこの分野での公的な医療に負うところが大きいのである。(Scotton & Deeble 1989).
また、公的医療における無料の診療は過剰診療や乱用を生み出すという批判もある。(Scotton & Deeble 1989) しかし、この議論についてもスコットンとディーブル自身が解答しているように、医療行為においてその必要性の認識は医者と患者の間で広い範囲で変化するし、なにより「過剰診療」と「乱用」を証明するためには、医療要求の厳密な定義が求められる。一般的に医療行為の中ではとりわけ手術などが最も大きな費用となるが、出産にかかわる治療や、救急治療や手術が限定されることは非常に考えにくい。(Scotton & Deeble 1989)
さらに、国民一人あたりの受診率を見ると、西欧諸国の中では日本がずば抜けて高いのに対しオーストラリアはその約2/3のレベルに押さえられているし、(Botsman 1998)平均在院日数も5.6日(1989/90平均)と日本の44.2日(1995)(厚生白書1998)という現状から見れば驚異的な水準を築いている。
確かに、公的医療における無料の診療は過剰診療や乱用を生み出す傾向を潜在的に持っていることは否定できない、しかし、オーストラリアの医療保険制度は、このように私的保険との役割分担を実現することでこうした過剰診療を押さえることに成功しているし、また完全紹介医制も非常に効果的に機能している。
これらの「過剰診療」や「乱用」に対するもう一つの政治的回答はケースミックスである。 これは、各々の疾病について、その治療日数や入院日数が決められ、病院に対しては、決められた額しか保険から支払われないというものであり、決められた日数よりも入院が長引けばその病院の収入にとってマイナスとなり、逆に入院期間が短ければプラスになるというシステムである。ケースミックスの一つのねらいはまさに患者一人あたりの医療費をコントロールすることにあるのは明白である。(Lin & Duckett 1997) このシステムは、オーストラリアのクイーンズランド州をはじめとして多くの病院ですでに採用されている。 このケースミックスはその治療標準が妥当に設定される限りにおいてこれらの「過剰診療」や「乱用」に対して有効に働くであろう。
以上概観してきたように、オーストラリアの医療保険制度は、独特な公私混合社会保険制度によって、一定の成功を収めてきており、また「効果」と「効率」の統一と言う点において注目すべき成果を収めているといえる。その点では、このオーストラリア独特のシステムは今日ヘルスケアーシステムの再構築に悩む西欧諸国に対して一つのモデルを提示しうるのではないだろうか。しかし、オーストラリアのヘルスケアーシステムは、その「効果」と「効率」と言う両面において更なる努力とその発展が求められている。そしてそこには二つの選択肢があるのではないだろうか。一つは単純な経済的な見地から人々への給付を切り捨てて行く道であり、この道は、まさに「効果」と「効率」と言う二つのファンクションを抜け出すことのできない矛盾の中に導くものである。そしてもう一つの選択肢はこの二つのファンクションを統一的に発展させて行く道である。オーストラリアのヘルスケアーは、今なを、この二つの道の間で動揺を続けている。かくして、「オーストラリアのヘルスケアーシステムは実に興味深い‘民主主義の実験室’となっているのである。」(Botsman 1998 p5)
参考文献
Australian's Health 1992.(1992). Canberra: Australian Institute of Health and Welfare.
Botsman, P. (1998). Two tier or new frontier? The challenge of future health care reform. Sydney: University of Western Sydney Macarthur.
Grant, C. & Lapsley, HM. (1992). The Australian Health Care System 1991 . Sydny: School of Health Services Management.
厚生白書平成10年版(1998)東京:厚生省
Lin, V. & Duckett, S. (1997). Structural Interests And Organisational Dimensions of Health System Reform. In Gardner, H(Ed.), Health Policy in Australia. (pp46-62).Melbourne: Oxford University Press.
Richardson, J. & Wallace, R. (1989). Survey of Health Economics. In Butler, J,R,G. & Doessel, D,P(Ed.), Health Economics: Australian Readings (pp.8-44). Sydney: Australian Professional Publications.
Scotton, R,B. & Deeble, J,S. (1989). Compulsory Health Insurance for Australia. In Butler, J,R,G. & Doessel, D,P(Ed.), Health Economics: Australian Readings (pp.128-144). Sydney: Australian Professional Publications.
White, J .(1995). Competing Solution: American Health Care Proposals and International Experience. Washington: Brookings Institute.